台湾で今も愛される日本人!杉浦茂峰・八田與一の軌跡とゆかりの地【飛虎将軍廟&鳥山頭ダム】の歴史をたどる

台湾で有名な日本人サムネ改定
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本日は台湾で愛される日本人を紹介したいと思います。

複雑な歴史を歩んできた日本と台湾ですが、現在の台湾では、日本の音楽や洋服、食べ物など、街中に日本の文化が溢れています。
日本語で書かれた看板も多く、初めて台湾を訪れた方は驚くことも多いのではないでしょうか。
少し街を歩くだけでも、台湾が親日国と呼ばれる片鱗を感じることができます。

では、その親日の根源はどこにあるのでしょうか?

台南には、今も現地で語り継がれる有名な日本人が2人います。
今回は、この二人の日本人とゆかりの地を巡り、その物語を皆さんにお届けしたいと思います。

次回、台湾を訪れる際に、少しでも参考にしていただければ嬉しいです。

目次

飛虎将軍廟

飛虎将軍廟地図
飛虎将軍廟の地図

台南駅からタクシーでおよそ15分の場所にある「飛虎将軍廟」。
ここには、日本人軍人の杉浦茂峰さんが“神”として祀られています。

杉浦茂峰さんについて

杉浦茂峰さん
杉浦茂峰さん

杉浦茂峰さんは1923年11月9日、茨城県水戸市に生まれます。
志願兵として海軍の乙種飛行予科練に入隊し、1944年10月12日、戦闘中に命を落としました。
その功績により、死後「功六級金鵄勲章」と「勲七等青色桐葉章」が授与されています。

台南で神となった理由

飛虎将軍廟神像
飛虎将軍廟の祭壇と神像

そんな杉浦さんが、なぜ台南の地で神として祀られるようになったのか――
その出来事を、紐解いてみましょう。

時は1944年10月12日。台湾沖航空戦の最中、台南上空で米軍機との空中戦により杉浦さんの零戦は被弾。
すぐに脱出すれば命は助かったかもしれませんが…。
杉浦さんは戦闘機が人の多い村に墜落するのを避けるため、最後まで操縦桿を握り、人のいない畑まで機体を誘導して墜落しました。
享年わずか21歳。

後に、軍靴(ぐんか)にしるされた「杉浦」という名と、第二〇一海軍航空隊分隊長・森山敏夫大尉の証言により、この飛行士が杉浦茂峰さんであることが判明しました。

戦後の出来事

零戦
零戦

戦後、村では「白い帽子と白服を着た若い日本の海軍士官が夢に現れる」という話が相次ぎます。

村人たちはそれが自分たちを守って亡くなった杉浦さんの霊だと信じ、感謝と敬意を込めて1971年に「飛虎将軍廟」を建立しました。

現在の飛虎将軍廟

飛虎将軍廟
飛虎将軍廟

今も多くの台湾人や日本人が参拝のため飛虎将軍廟を訪れます。

廟の管理人さんは毎日朝と夕方、3本の煙草に火をつけて神像に供え、日本の国歌「君が代」と、海軍の軍歌「海ゆかば」を祝詞(のりと)として流しています。

神となった杉浦茂峰さんは、今も台南の人々を静かに見守り続けているのです。

鳥山頭ダム

烏山頭ダムの地図
烏山頭ダムの地図

台南にある烏山頭ダムは、台湾を代表するダムのひとつ。
このダムを建設したのが、日本人技師・八田與一さんです。

八田與一さんについて

八田與一
八田與一技師

八田さんは1886年(明治19年)2月21日、石川県金沢市に生まれました。
1910年に東京帝国大学工学部土木科を卒業し、台湾総督府内務局土木課に就職。当初は台南・嘉義・高雄などで上下水道整備を担当し、台湾の衛生環境の改善に尽力しました。
31歳の時、故郷・金沢の開業医で県議も務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)さんと結婚します。

鳥山頭ダムの建設

右から三番目が八田技師
右から三番目が八田技師

1918年、八田さんは台湾南部の嘉南平野を調査します。
この地域は広大でありながら、水不足と旱魃に悩まされていました。

八田さんは「この土地にダムを作れば、台湾南部を豊かな農地にできる」と考え、建設計画を上司に提出。のちに国会で承認され、1920年に工事が始まり、1930年に完成しました。

2000年代以降は別のダムに大きな役割を譲っていますが、近年同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、烏山頭ダムは今でもしっかりと稼動しています。

ダム建設時には、作業員のために宿舎・学校・病院などの施設を整備。
労働者の生活環境を大切にする八田さんの姿勢がうかがえます。

建設途中の1922年には爆発事故で50人以上の死者、100人余りの負傷者を出し、さらに翌年の1923年には関東大震災が起こり、予算削減の為に作業員を解雇する必要がありました。
その際、八田さんは、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、優秀な作業員から解雇する一方で、その方達の再就職先の世話もしたそうです。
部下を粗末に扱わない八田さんの優しさをあらわしたエピソードの一つです。

ダム建設のその後

大洋丸
大洋丸

1942年5月。八田さんは陸軍の命令で「大洋丸」に乗船中、アメリカの潜水艦グレナディアーの攻撃を受けて戦死します。享年56歳。

その3年後の1945年9月1日、妻の外代樹さんは夫の後を追うように、烏山頭ダムの放水口に身を投げました。享年45。

今も夫婦はダムのほとりに並んで祀られています。

烏山頭ダムの放水口
烏山頭ダムの放水口

鳥山頭ダムを観光してみよう

今も夫婦はダムのほとりに並んで祀られている
今も夫婦はダムのほとりに並んで祀られている

八田さんの台湾での知名度は高く、烏山頭ダムでは八田さんの命日である5月8日に慰霊祭が行われています。

そんな烏山頭ダムを観光する場合は台湾鉄道の隆田駅からタクシーをチャーターするのがオススメ。
烏山頭ダム周辺は広大な公園となっているため、徒歩やバスでの観光はオススメしません。私が訪れた時は90分千元でチャーターする事ができました。

台湾と日本の絆を感じられる素敵な観光地なので、皆様も是非訪れてみてください。

日本人だからこそ知りたい歴史

本日は台湾で有名な日本人をご紹介しました。

台湾は確かに親日国だと思います。
私自身旅する中で何度も台湾の人達の優しさに救われる事がありました。
しかし自然と親日国になったわけではありません。

もし皆様が台湾を訪れ、現地の方に親切にしてもらった時、杉浦さんや八田さんの事を少しでも思い出してもらえると嬉しいです。

台湾と日本の架け橋となっていただいたお二人と、激動の時代を過ごしながらも歴史を大切に伝えてきてくれた台湾の人たちに心から感謝したいと思います。

私のSNSYouTubeでは最新の台湾情報を随時更新しているので、是非フォロー、チャンネル登録をお願いいたします。それでは今回はこの辺で。

Chan Kei Profile

Chan Kei
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写真や動画を通して旅の魅力を伝えています。
台湾で有名な日本人サムネ改定

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